5. 古代日本のDNAと その性格(1)



  日ユ同祖論 あるいは 日ユ同族論 やこれに準ずる議論では、ユダヤ人と 日本人のある人種グループは、文化的のみならず、人種的に同じものを含むと言われているが、実際はどうであろうか? 現状のDNA調査結果では、これといって共通する部分は持っていないことが明らかになっている。また、ユダヤ人オリジナルの J系統(アブラハムの子孫)は皆無であり、東北に見られる N系統は北方アジア系で 異なる。
  同じ YAP部をもつ E系統と 日本人の縄文系の D系統は 初期の時点で分岐したもので、縄文系の D1b は 日本で古くからの独自のものとなっていて、ユダヤ人種とは何の共通点も無い。

  ただし、聖徳太子時代以前の 秦人や、聖徳太子以降の中東方面からの渡来人が確かにいて(厩戸皇子自身もペルシャ人(しかも、ネストリウス派のキリスト者)の可能性が高い。)、天皇家の側について、幾世紀にもわたって 多くの文化的影響をもたらしたのは事実であり、当然、人数は少なくても人種的交流もあったと考えられる。 現状のDNA調査検体数は数百人程度なので、未だ数字に表れていないが、天皇家や側近、神官・雅楽などの伝統的な家系の人々、また東北の太平洋側の人々などに対象を絞って調査すれば、ユダヤ人固有のDNA(特に、はっきりDNAが知られている レビ族の祭司(コーヘン、 コハニムはコーヘンの複数形))が見つかる可能性は大きいと思われる。
  もちろん”ユダヤ人”の定義は、”ユダヤ教を信奉する人々”なので、その文化が無ければ”異邦人で なおかつ 血統がユダヤ人の人”ということになる。 ミャンマーのマナセ族や、エチオピアのダン族、ジンバブエのレンバ族などが、イスラエルに帰還しているのは、彼らが伝統的に持っていた”ユダヤ教”が、調査機関の「アミシャブ」と イスラエルの超正統派が支配する「主席ラビ庁」に受け入れられたからである。(他の方法でイスラエルに継続的に滞在したければ、向こうの会社に招かれる形で ビジネスの”永住権”を得る方法がある。)



  (1) 日本固有の Y染色体DNAハプロタイプの移動:


   1) D系統(古モンゴロイド):  DE*(祖型)  ・・・ ナイジェリアで5例       D*(祖型)  ・・・ アンダマン諸島
             グアム、タイでD-M174が10−20%、カンボジアでD1−Mが3.8%

     ・ DE → D系統と E系統の分岐 の遺伝距離は 3.8万年(=3950年、洪水後50年

            D1a1 (D1)  ・・・ ヤオ族、      D1a2 (D3)  ・・・ チベット、 朝鮮半島(6%)
            D1b(* 旧 D2 2014 5月から名称が変わっている)  ・・・ 日本(縄文系) (大和、琉球、アイヌ)、
            D2  ・・・ フィリピンのマクタン島、グアム島

   チベット: D1a1 16%、 D1a2 33%、    ヤオ族: C 20%、 D 30%、 O2a* 40%、 O3* 10%  チワン族: D1 29.6% 
   漢民族: D1a  1−2%、   羌族(羌岷族)のプミ族: D1a1 70%(最多)

   日本(大和): D1b 36%、  (琉球): D1b 45%、 (アイヌ): D1b 88%、 C3 12%
   ● D1b(国内平均36%): 北海道56.3、東北35.6(D1a2 2.2)、関東48.2、中部34.8、近畿31.4、中国18.8、四国25.3、九州28.8、沖縄45.1

     ・ D1aと D1bの遺伝距離は 3.5万年(=3900年前、洪水後100年頃でかなり初期)。 D1b は 古くから日本にのみあった独自のもので、日本のD系統は全て D2-M57で、日本以外には存在しない朝鮮半島は D1aのみ(6%)であり、縄文人は半島からではなく南方から古い時代に来て定住した。陸続きであり、東シナ海を徒歩で北上のルート。 階段状ピラミッド等を海沿いに作った後、海面が上昇し 弥生人が来るまで日本に孤立した。

  縄文人の年代は、1.の修正により、 初期: 6000年前= 3700年前(BC1700年、洪水後 300年)、  晩期: 3000年前= 2700年前(BC700年、洪水後1300年
  その後、弥生人(O2b、O3)が入って来たのは、BC300年頃の かなり新しい時期である。(造船・航海技術が必要)


   2) O系統(新モンゴロイド): 長江文明・弥生系(系) O2b、O2b2a(→ 2015 11改定 O1b)、 (楚系は O1a、 越系は O2*、O2a)、 黄河系 O3(→ 2015 11改定 O2)  (→ 極東遺伝子調査

     ・ O2b(朝鮮・呉系(→ 2015 11改定 O1b)): 韓国 32%、 満州 18%、 中国・朝鮮族 43%、 中国・漢族 0.1%  は、ずっと後の 弥生時代(BC300〜)に、先住民が九州南部の大噴火で死滅した後の時代に、長江流域から船で渡ってきたと考えられている。ただし、稲作は 華中から(長江中流域の起源)。 朝鮮半島は、弥生時代の日本とも直接の関係が無く、中国本土の戦いに敗れた国の単なる逃れの場所に過ぎなかったと考えられる。(もし関係があれば、上記のD1aも日本にいるはず。) かなり後の藤原氏は百済の出身。
   ● O2b(日本): 本州: 26−37%、 九州: 34%、 琉球: 30% (楚系のO1a(台湾先住民80.5)は中国地方に18.8%もいる!。国内で他はいない)

     ・ O3(華北系(→ 2015 11改定 O2))は意外と多く、 韓国: 45%、華北: 66%、  ● 日本:O3(→ 2015 11改定 O2)  16% もいる。


   3) C系統: C2 ヌルハチ、満州国王・愛新覚羅 溥儀(C2b2)、 チンギス・ハン(C3c)、 ・ 日本人のC系統も、D系統と同様に他国に無い 独自の C1a1、C2(C-M217) 2.9% (旧 C3a 北海道、近畿、九州に多い6−7%、 関東、中部、四国、沖縄は少ない 1.4−2.5%、 初期に北からの海辺の民、 D系統と長い間共存) であり、一方 日本に C3c はほとんどいない(義経伝説は間違い、チンギス・ハンと関係ない)
  南方からの C1a系統縄文人は、九州南部の噴火・降灰によってほぼ滅亡したと考えられている。

   ・・・・ 端的に、 D系統: サラリーマンタイプ・スピリチュアル好き、  O3系統(→ 2015 11改定 O2): 武将・実業家タイプ、 C系統: 職人・昔のエミシ・ツチグモなど


   4) その他: ・ N1系統 1%未満 ・・・ 北方アジア系(シベリア、北欧) → 東北の日本海側
            ・ Q1系統 1%未満 ・・・ 北方ヨーロッパ系(シベリア、北米、南米)


  * YAP部分: Y染色体DNAの 300塩基部分/6000万塩基、  本来 RNAに挿入されるべき部分を、 Y染色体DNAに挿入された 特別な変異箇所。
   ただし、D、E の分岐時期が古いことから、ヨセフの妻 アセナテ経由とは考えにくい。しかも、非エジプト人(シリア、パレスチナ)が支配層だった ヒクソス時代(第15王朝)の祭司 ポティフェラ、アセナテは、必ずしもYAPを持ったハム系のエジプト人とは限らない。

  ** 徐福伝説: 弥生時代の徐福たちの日本渡来(秦の始皇帝・BC259−210の終わり頃)は、一種の植民地運動ではなかったかと考えられる。ただし、弥生人は縄文人と共に文字を持たなかった(か、あえて文字を残さなかった)ので、日本の各伝説地に漢字が(外来の剣・鏡・銅券などを除いて)残っていないので、全体から見てごく小規模の出来事だったと思われる。 一方、BCからADにかけての琉球(扶桑国(ハイビスカスの国))では、フェニキア系の文字(下のほう・沖縄のフェニキア遺跡:)があったとされている。

  *** 天皇家(皇室)のY染色体DNAは、東山天皇(113代、1675−1710)の男系子孫(複数名)の口腔内粘膜の分析より、D1b(M64.1)の D1b1a2(旧D2a1b)、すなわち縄文系であることが判明している。 → 6.の(5)





  (2) D系統と 階段状ピラミッド文化の伝播:


  D系統が日本に移住したごく初期の古い時代に、今は海底に沈んでいるいくつかのピラミッド状の建造物、すなわち海底ピラミッドが建設された。 それは、初期のエジプトと同じ 階段状ピラミッドで、 ハム系の D系統が E系統と分かれた時に 東方へ伝わり、一部は チベット・中国山岳部に、そしてもう一部は 琉球・日本伝わったと考えられる。
  その後、ノアの洪水の余波である大きな地殻変動により、歩いて渡って来れた東シナの土地は海に沈み、建設したピラミッドも数十mも海に沈んだ。 高いところに建設した 環状列石(大分、熊本)などの遺物はそのまま残っている。
  ここで大事なことは、人々が陸上に(石材等の海運ために海岸近くに)作ったピラミッドを含む建造物が、海底深く沈んでしまうような 大規模な地盤沈下(・・・神のさばき!)が東北から沖縄にかけての日本中で起こった ということである。(南方からの C1a系統縄文人は、九州南部の噴火・降灰によってほぼ滅亡)

  同様に、沖縄のシーサーも、スフィンクス(エジプト、ソドムとゴモラの遺跡にもスフィンクスと硫黄と”金の塩”の残骸! → ヘンリー・グルーバー師聖会メッセージの上のほう)が シンガポールのマーライオンと同様に伝播したといわれている。(シーサーには他に イスラエルのユダ族=しし(ライオン)(創世記49:9)から来たという説がある)

     猟師ニムロデが作ったシヌアルの地(バビロニア、アッシリア)の”バベルの塔”(レンガ製) →  (混乱・バベル →  世界中に人種が拡散 )

            → エジプト初期の階段状ピラミッド(E1b1a系統)、 カナンの地(ソドム、ゴモラ)のスフィンクス(E1b系統)

            → アンダマン諸島のD*(D祖型) ・・・ ほぼ”黒人”、 これが アジア系の女系と混じって、D1a、D1b、D2などへ

            → チベット・中国(D1a系統)

            → 琉球(与那国、沖縄北谷)・日本(九州北部、青森沖、秋田のクロマンタ)(D1b系統・縄文人)

  縄文人の古い文化にはユダヤ性を表すものは何も無く、文字も無く(沖縄のフェニキア文字はAD初期の時代のもの)、アニミズム・シャーマニズムを崇拝し、狩猟民ではあったが比較的平和を好む人々だった。 ただし、人身御供などの邪悪な行いがあった。 縄文末期の寒冷化や 九州南部の大噴火・降灰・水没により人口が激減し、その後に入ってきた弥生人は、稲作で人口が増えすぎたため 戦争が頻発した。
  階段状ピラミッドはペルーにもあり、この時代の共通した文化であり、死後から永遠の世界をいつも考えていたのだろうと思われる。秋田のクロマンタ(黒又山)は外見上はなだらかであるが、超音波探査により内部が階段状になっているのが観測されている。 与那国、北谷、北九州、青森の海底遺跡は調査中であるが、階段状ピラミッドを含む大規模な人工的な構造物の形跡が数多く発見されている。

  北谷の海底ピラミッドでは、北谷200m沖、海底20mに、幅40m・高さ10m以上の岩壁構造。
  与那国海底遺跡(水深30m)では、階段状構造を含むメインテラス(長さ100m・高さ25m)、アーチ門、二枚岩、亀ノ岩、ループ道路・排水溝、Yのような岩に刻まれた文字(北谷と類似)、などがある。 また サンニヌ台近くの海底に スフィンクスのような岩があって シーサーの起源といわれる。(シンガポールではマーライオン、スリランカではシーギリア・ロック(ライオンの入り口)、スフィンクスはギリシャ、メソポタミアにもある)(→ 与那国海底遺跡

  長安(咸陽、今の西安)郊外にある劉邦の子供の墓(漢安陵)なども、側近たちの当時のペルシャ文化により、北北西に20度傾いた(シリウス信仰)小規模のピラミッド群となっている。(劉邦自身は O3a1c で華北系漢族、しかし鼻は高かったという。) 当時は即位の翌年から自分の墓であるピラミッド建設を始めたという。
  中国内陸部にはこのようなピラミッドが100基以上あるといわれていて、西洋人の風貌の女性のミイラも発見されている。
  タリム盆地で発見された金髪のコーカソイドのミイラは、3800年前(≒3200年前)のものが最古とされ、現在この地域のウイグル族R1b-M73(20%、西欧系)と R1a1(30%、東欧系)とかなり多い。(photo: 3.の資料

  

 





  (3) シルクロード沿いの 西方からのDNA:


  渡来人やその文化が日本まで届くためには、途中でいろいろな形跡を残しているはずである。 Y染色体DNAについては、

   J系統の東アジア分布: ・・・・ ユダヤ人や ペルシャ人が 往来した形跡  (by. DNAが解き明かす日本人の系譜(崎谷満 著、2005) p100〜102)

      ユダヤ系を含む  J2(M172): チベット 1%、 ウイグル 6%、 モンゴル 2%、 エヴェンキ(シベリア) 1%、 ブリヤート 1%、 ベトナム 1%
      ユダヤ系を含む  J2a1b(M67): ?
      アブラハムの子孫 J*(12f2a): ホイ 2%、 満州 2%、 ウイグル 4%、 モンゴル 1%、 ベトナム 1%

   G、R系統
      コーカサス、イラン(ペルシャ)、アフガニスタン G2、G2a(P15): 華北 2%、 ウイグル 4%、 モンゴル 1%、 マレー 3%
      東欧系    R1a*: 華北2%、ホイ11%、チベット11%、満州2%、エヴェンキ(中国)5%、ウイグル22%、モンゴル2%、トゥチャ4%、マレー3%

   ・・・・・  シルクロード沿いには確かに J2系統のユダヤ、ペルシャ系が多い。(J1系統のアラビア系は少ない) ペルシャ人が多くいたと思われ、大和との関わりが深かった新羅は、高麗に占領され いなくなった。 また、E系統は今の所出てきていない。 東ヨーロッパ系(東ローマ人?ロシア人?、R1a)が意外と多い。 仏教の優勢なチベット、中国よりも、北方遊牧民のほうが 外来宗教(景教、ゾロアスター教など)に寛容だったことを表す。 (首都・長安)の初期〜中期も 北方遊牧民出身の王たちが支配したので、他に類例を見ないほどいろいろな宗教が流行した。 後の チンギスハンの盟友のケレイト部族は、部族ごと景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰していた。(それゆえチンギスハンは宗教には寛容だった。)

 


  離散ユダヤ人は、宋の時代に最も栄えた開封(カイファン)に、19世紀末まで、大きなコミュニティーを持っていた。(中国のユダヤ人は、混血のため外見上中国人であるが、ユダヤ教の伝統をしっかり持っている。これはミャンマーやエチオピアのユダヤ人も同じ) 開封から出土する、紀元前後のユダヤ人を描いた人形(俑(ヨウ))があり、離散当時から、唐の時代も含め、シルクロードの行き来があったことを物語っている。
  また、中国国内で奴隷にされるのを嫌って、ミャンマーやインド・ミゾラム州、マニプル州、四川省の山岳部などに移住したユダヤ人(マナセ族)も多く、近年 イスラエルへの帰還が始まっている。

  本格的にシルクロードが開通したのは前漢時代であり、前漢は積極的に西域交易を推奨したので、すでにAD1世紀には多くの西アジアやユダヤ方面からも人々が往来していたと考えられる。1926年に洛陽で発見された3つのヘブライ語石碑の破片は、後漢時代(AD73年、明帝)のものであった。エルサレム陥落(AD70年)によって世界に散っていったユダヤ人の一部がここに来たとされている。(1989 5/13・エルサレムポスト誌)

  戦中、手島郁郎氏(”キリストの幕屋”の創設者)が開封に住んでいた時、友人の中国ユダヤ人が彼からお金を借りて、エルサレムまでシルクロードを歩いていって6ヶ月で戻ってこれたそうである。彼らはシルクロードを手軽に行き来する感覚である。 だから、ユダヤ人が江戸鎖国時代以前のすべての時代を通して、日本に来ていたとしても不思議ではない。(→ (3) シルクロードからのユダヤ人の移民
  彼らは ミズラヒムに近いグループなので、J系統が濃く、E系統が薄いと思われる。


  秦人が、 @ 応神天皇の時(AD362−394) 数千人、 A 雄略の時(456−479(489)?) 1万8千人、 B 欽明の時(539−571) 3〜4万人 渡来してきた記述がある。
  推古天皇の摂政、”聖徳太子”こと 厩戸皇子(うまやどのおうじ)(AD574?〜622?)は、疑いの余地が無いほど ペルシャ人(あるいは 中東系の渡来人)であり、さらに、ネストリウス派のキリスト者であった可能性すらある。 彼は 蘇我氏や 後の羊太夫らとともに、新羅との交流を持っていたと考えられる。新羅のあった慶州(キョンジュ)には古墳群があって、そこからは非常に多くのペルシャ、ローマ系の遺物、また、唐の時代には 景教の遺物(十字架など)が出土している。おそらく、渡来人たちを通して 日本国内にも 東方キリスト教(INRI)景教(ネストリウス派キリスト教)が宣べ伝わっていたと考えられる。
  一方、この倭国・大和国と並行して6世紀頃に栄えた、日本国(関東王国)も、北斉や高句麗と独自のルートを持っていたことが 最近の発掘で知られるようになった。

 


                    →  聖徳太子の謎 




               次へ             トップへ戻る